ひとつの部署に長く身を置き、責任ある仕事を続けていると、ある感情が静かに、しかし確実に心の中で育っていきます。
「自分がこの部署を引っ張っていかなければならない」という、強い義務感と自負です。
しかしある日突然、その前提がガラガラと崩れ、自分の居場所やこれまでの努力が否定されたかのような衝撃を受ける瞬間が訪れてしまいました。「なぜこれだけ尽くしてきたのに、こんな扱いを受けなければならないのか」と。
当時の私は、完全に盲目になっていました。自分自身を客観的に見る力を失っていたのです。
噛み合わなかった「2つのモノサシ」
振り返れば、そこには致命的なボタンの掛け違いがありました。
- 私のモノサシ: 長年この部署を守り、引っ張ってきた自負と義務感
- 外部(組織)のモノサシ: 過去の経緯は関係のない、全く別の新しい評価基準
私が勝手に背負っていた「義務感」や「これまでの貢献」は、外部から来た人間には見えません。見えている景色が初めから全く違っていたのです。
当時は「どうして理解してくれないんだ」と周囲を恨みそうになりました。しかし、それこそが「自分のモノサシ」を相手に押し付け、過去のポジションやプライドに激しく執着している状態そのものでした。
自分の立場が揺らいだ直後は、頭の中で「どうしてこうなったのか」「誰が悪かったのか」をぐるぐると深掘りしてしまいがちです。ですが、どれだけ過去を分析したところで、下された評価も、変わってしまった現実も、1ミリも動きません。
深掘りすればするほど、自分で自分の傷口を広げ、執着の泥沼にはまっていくだけでした。
シドニー五輪・篠原選手の「潔さ」に打たれる
そんな葛藤のどん底にいた私を救ってくれたのは、2000年シドニーオリンピック・柔道決勝での篠原信一選手の姿でした。
世紀の誤審、疑惑の判定と言われ、日本中が怒りに沸いたあの試合。誰もが判定の理不尽さを訴える中、試合直後のインタビューで篠原選手はただ一言、こう言い放ちました。
「自分が弱いから負けた。それだけです」
この言葉を思い出すたび、今でも胸が震えます。 審判の基準を恨むわけでもなく、「本当なら自分が勝っていた」と過去にしがみつくわけでもない。ただ、「結果がすべてであり、そこに自分の実力が及ばなかっただけ」と、現実を淡々と受け入れる。これほど美しい引き際があるでしょうか。
私の心にストンと落ちるものがありました。 「結局、私の実力が足りなかったんだ。ただ、それだけのことじゃないか」と。
美しく諦めるということ
仏教において「諦める」とは、ネガティブに投げ出すことではなく、「事情を明らかに見極める」という意味を持ちます。
「組織の評価基準と、自分の独りよがりの義務感がズレていた。そして、当時の自分にはそれを跳ね返すだけの実力がなかった」
そうやって現実をただ事実として受け入れた瞬間、不思議なほど心がすっと軽くなりました。
原因を外側に探して恨むのをやめ、「これが今の現実だ」と静かに受け入れること。篠原選手のような潔さを持って、過去の執着を手放すこと。
それこそが、理不尽さの中で立ち尽くしている私たちが、次のステージへしなやかに歩き出すための、最大の心のトレーニングなのだと確信しています。


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